2016年9月18日第2主日礼拝 イザヤ書61章1節、3節
- 2016.09.18 Sunday
- 13:52
「嘆きから讃美へ」大須賀綾子牧師
灰は物を焼き尽くされた時に出るものです。
その灰を頭にかぶり、神様の前に表す、呻き、悲しみ、絶望などを、聖書の人
々は、嘆き、と呼びました。
灰をかぶる人は、神様との関係も断絶したのではないか、と思えるような状況
にある人々でした。
イザヤの時代のイスラエルは、神様からの祝福を受ける生き方、十戒や律法に
よる人としての幸せな生き方、命を十分に生きる生き方から、人々が遠のいて
しまった時代、主と共に生きる生き方を失った、イスラエルの民の絶望の時代
でした。
この時代に、イスラエルの人々は、神さまの愛を受けた、神様の愛を知るもの
として、神様の前に立つけれど、神様の喜ばれる姿では立てなくなってしまっ
ていた、悲しい、哀れな主の民です。
その絶望のすがたが、灰をかぶり、恥のなかで、惨めさのなかで呻いているイ
スラエルでした。
神様は、その哀しいイスラエルに目を注ぎ、慈しんでくださるのです。
神様の導きに、素直に従う民も、絶望の中の民も、主なる神様には、同じ愛し
い民でした。
どんな状況でも、神様の目が、愛する人々から離れることはありません。
神様は、嘆き悲しみ、恥で覆われた、灰だらけで神様の前に立つ人々を宝と呼
ぶのです。
素直で可愛い、神さまに忠実な人々を宝、と呼ぶのと同じ愛情で、言うことを
聞かない、すぐに目を離す、いつもどこかへさまよいでる人々を、宝、と呼ぶ
のです。
宝である人々が、そっぽを向いているときも慈しみ、愛してくださいますし、
宝が泣きながら呻き哀しむときには、神様も痛みながら慈しんでくださいます
。
今日の聖書の箇所は、その神様の愛を歌う箇所です。
彼、すなわち、神様は、灰をかぶる私たちの頭に、輝く冠を見ます。宝を、宝
としてご覧になっているからです。
人が自分で気がつかないうちに、灰をかぶるようなことになっていくときにも
、主なる神様は、その灰だらけの頭を、光り輝く宝の頭と見られるのです。
人、私たちは、自分たちの側から物事を判断して、嘆き、苦しんでいる間は、
神様の前に立つ時に、灰をかぶっていなければ、立つことができません。
神様の前で、神様の正しさの前にいられない自分の情けなさ、愚かさに向き合
うとき、どうしようもない自分たちを自覚し、私たちは自分たちの頭に灰をか
ぶって呻くことしかできなくなるのです。
その時、神様はひたすら慈しみの眼差しで灰をかぶる私たちを見つめて下さい
ます。もっとも汚らしい私たちを、一番どん底にいる私たちを、光輝く宝とし
てご覧になります。
神様は、私たちの弱さ、力のなさ、辛さをすでにご存じです。
そして、私たちの側の状況ではなく、ただ、神様からの一方的な愛によって、
私たちを神様のもの、としてご覧になり、さらに、私たちにも、神様の眼差し
から見る、神の愛する人々の姿を教えてくださいます。
みことばには、こうあります。
主なる神様が、私を選び、神様によって用いられることとした。
それは、神様からの一方的なみこころで、私だけを救うのではなく、正しさに
欠けた人々に、本当の正義を与え、救いを伝えるためである。
人としての愚かさや偽善、自分たちで縛り付けた様々なことにがんじがらめに
なっている私たちを解き放ち、どうしようもない不幸、悲しみ、痛みの只中に
いる私たちを救い出してくださるためである。
恥にまみれた灰から、光輝く冠をかぶる者としてくださる。
嘆き、呻く、傷だらけの者だった私たちが、手当をされ主なる神様の愛の良い
香りを漂わせる、満ち足りた、安心した者とされる。
そして、主なる神様から、すぐ目を離し、さまよい、はずれる、自分たちの道
を保ち続けることのできない、信仰を持つことのできない私たちの弱さを、主
が整えて、導いて、主なる神に目を向け、主なる神だけを礼拝するものとして
くださるのです。
イエス様に導かれて、私たちは、高貴な命、恥を知ることのない者とされてい
きます。
神様からの恵みによって、イエスキリストの命によって、私たちは、嘆きから
、讃美へと変えられていくのです。
この讃美は、私たち、という限界のある力から出るものではないので、変わる