イエス様は、神様の御子です。
イエス様は、生まれて、成長し、神様のお働きをなさいました。
イエス様は、いろいろな場所を歩き、いろいろな人に出会われ、旅を続けられました。当
時、町は壁で囲まれていました。門から町に入ると、中心部に神殿があり、その前に広場
がありました。そこで、イエス様は、「神様の御国は、もうここに来ている。神様はみん
なを祝福されている。」と希望の福音を伝えました。
イエス様の時代、旧約聖書の律法に従うことが、主なる神様への信仰だと理解されていま
した。その中で、病気や様々な困難にある人々は、神様の祝福を受けていないためにその
ような状況に陥っている、という誤解があり、共同体、家族、友人知人、住んでいる町か
ら拒絶されるという悲しいことが起きていました。
イエス様は、街中ですごすことがゆるされない人々、助けも受けられない人々に出会われ
ます。そして、声をかけ、病気を癒し、問題を解決して導かれていったのです。
まちから少し離れたところで、イエス様は、ついてきた人々の前で、丘の上に腰を下ろし
、多くの人々へ語りかけられます。
悲しむ人々は幸いである。その人々は慰められる。と。
人が悲しむことを、イエス様は認めてくださいました。
悲しみと向かい、心を傷めることを幸い、と呼ばれました。
恵みは、勝ち取るものではなく、祝福は、幸いを得ること、そして、悲しむ人々こそ幸い
だと、教えられました。悲しみ、嘆き、主なる神様に助けを求めることこそ、神様へ向か
う姿、神様に頼れる、弱さを知っている人だと、イエス様は言われます。
悲しむ人とは、人々に寄り添い、心を傷めることのできる人、心を寄せることが出来る人
だ、と。
日本語で、「優しい」という漢字は、「人」が「憂う」と書きます。心を痛めて、苦しむ
人に目を注ぐことを「優しい」と言います。その思いは、神様が私達に与えてくださった
愛の一部です。
イエス様は、悲しむ人々は慰められる、と救いの言葉をくださいました。イエス様の慰め
は、一人一人の心の回復、人間性を取り戻し、命の尊厳を持ち直すこと、です。
神様の祝福は、一人一人の命を尊いものとして、大切にしてくださるのです。
悲しむ人々は幸いである。その人々は慰められる。
]]>今日の聖書箇所は、山の上の垂訓と呼ばれているところです。
イエスさまが、丘から、イエス様についてきた人々へ語りかけてくださいます
。
イエス様は人々に向かって神さまの恵みについて語りかけられました。
「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」
イエス様は、私たちを救うために、この世にお生まれになりました。
命をかけて十字架にかかり、私たちを贖い、癒し、救ってくださいました。
人が弱くもろいものであること。神様の正しさのまえに、どな人も正しく立つ
事はできないこと。人の愚かさ、悲しさをイエス様はよくご存知でした。そし
て、本当の豊かさに向かい合うようにと、言われるのです。
神様を求めない命は、虚しいものだと、貧しいのだ、とイエス様は言われるの
です。
自分たちの心が貧しいことを知っているだろうか?与えらえれた命は、神様に
愛されていること、神様の祝福を受けることができることを、あなた方は、知
っていただろうか?と聞かれるのです。
そして、イエス様は言われるのです。
絶望的な、どこにも救いのない貧しさに向き合うとき、あなた方は幸いです。
なぜなら、この世界には神様がおられて、天の国が備えられているからです、
と。貧しいと気がつかされているあなた方だからこそ、空っぽの器に、主なる
神様の愛を十分に受け、恵みと祝福をいっぱいに受けることができるのです。
]]>今日の聖書の箇所は、パウロからのお手紙です。
パウロは、神様の福音を宣べ伝えるために、様々な場所へ出かけて行った宣教
師です。力と知識と豊な言葉の賜物を持ち、主の恵みを分かち合う喜びを伝え
る旅をしました。
その旅の連れでもあり、パウロよりも少し若く、パウロのことを一番理解して
いた人がテモテでした。テモテは教会という信仰共同体を見守る賜物をもって
いました。
パウロは、テモテに手紙を送りました。
クリスチャン、イエスキリストを信じる人々への迫害の時代の中であっても、
イエスキリストの救いを宣べ伝えることをやめないように、と強く願う内容で
した。パウロはテモテに語ります。主イエスを証しすることも、主のしもべと
なっていることも恥なくてよい。誤解されたり、迫害されることを恐れる必要
もない。
理解されないことを苦しむ必要はない、と教えるのです。
そして、伝える形も、パウロのように語り、パウロのように宣教する必要はな
い、テモテの信仰で良いのだ、と教えました。
パウロはどんな場所でも、福音を宣べ伝えることができました。多くの人々に
神様の恵み、イエス様の愛を伝え、多くの人々が信仰に導かれました。
しかし、パウロこそ、始めはイエス様の弟子たちが、イエス様を伝えることを
、また、イエス様を信じる人々の教会を必死で迫害していた人でした。
そのパウロが、イエス様に出会い、人生をひっくりかえされたのです。キリス
ト者迫害の過去を持つパウロは、その過去の痛み、悲しみ、苦しみから離れる
ことはありませんでした。
神様の憐れみによって、イエスキリストの罪の贖いによって、救いを与えられ
たパウロは、弱さを主の恵みとして喜び、苦しさのなかで、神様の力に支えら
れていること、神様に信頼することを恥なくても良い、と励ますのです。
主に呼ばれて、主の命を受け、主を知ることができた私たちは、その喜びを分
かち合うために、主の生き方をできる人は生きることで、教えることができる
人は、教えることで、歌うことができる人は、歌うことで、成すべき時に、な
った時に、私たちの今できることを献げて行けば良い、と主は私たちに委ねて
くださるのです。
私たち一人一人に与えられている賜物がちがうのは、神様の恵みを、私たちが
それぞれの特別な方法で分かち合うことができるように、そして、そのたった
一つのかたちによって、誰かが神様を知ることができる、ということが、ある
のです。
一人一人が違うから、いろいろな働きがあるのです。
ハンドベルの音がそれぞれちがうからこそ、それぞれの音を合わせることによ
って一曲の讃美になるように。神様の恵みがいろいろな形をとることを、私た
ちはお互いの違いをとおしてみることができます。
神様は、私たちを信頼しています。とんでもないことをやってしまうかもしれ
なくても、弱くても、強すぎても、元気でも、病気でも、楽しい人も、悲しい
ひとも、みんな、神様が信頼しているのです。
神様からの祝福を受け止めるのが私たち、だからです。
そして神様は私たちを信じて、神様のお働きを委ねます。
だから、私たちは信頼されているものとして、平安のなかで、力と愛と思慮分
別のなかで、持てる力で、主を証しするのです。
感謝して、生きていきましょう。神様が与えてくださった命を精一杯生きてま
いりましょう。神様から委ねていいただいた、神様のお働きを喜んで、安心し
て進めていきましょう。
イエス様は私たちを愛しておられます。
イエス様が私たちの救い主です。
イエス様が私たちの罪を贖い、十字架にかかり、死んで蘇られて、永遠の命の
約束を与えてくださいました。
私たちは、愛され、守られ、導かれています。
信頼され、神様のみわざを委ねられています。
感謝して。
]]>灰は物を焼き尽くされた時に出るものです。
その灰を頭にかぶり、神様の前に表す、呻き、悲しみ、絶望などを、聖書の人
々は、嘆き、と呼びました。
灰をかぶる人は、神様との関係も断絶したのではないか、と思えるような状況
にある人々でした。
イザヤの時代のイスラエルは、神様からの祝福を受ける生き方、十戒や律法に
よる人としての幸せな生き方、命を十分に生きる生き方から、人々が遠のいて
しまった時代、主と共に生きる生き方を失った、イスラエルの民の絶望の時代
でした。
この時代に、イスラエルの人々は、神さまの愛を受けた、神様の愛を知るもの
として、神様の前に立つけれど、神様の喜ばれる姿では立てなくなってしまっ
ていた、悲しい、哀れな主の民です。
その絶望のすがたが、灰をかぶり、恥のなかで、惨めさのなかで呻いているイ
スラエルでした。
神様は、その哀しいイスラエルに目を注ぎ、慈しんでくださるのです。
神様の導きに、素直に従う民も、絶望の中の民も、主なる神様には、同じ愛し
い民でした。
どんな状況でも、神様の目が、愛する人々から離れることはありません。
神様は、嘆き悲しみ、恥で覆われた、灰だらけで神様の前に立つ人々を宝と呼
ぶのです。
素直で可愛い、神さまに忠実な人々を宝、と呼ぶのと同じ愛情で、言うことを
聞かない、すぐに目を離す、いつもどこかへさまよいでる人々を、宝、と呼ぶ
のです。
宝である人々が、そっぽを向いているときも慈しみ、愛してくださいますし、
宝が泣きながら呻き哀しむときには、神様も痛みながら慈しんでくださいます
。
今日の聖書の箇所は、その神様の愛を歌う箇所です。
彼、すなわち、神様は、灰をかぶる私たちの頭に、輝く冠を見ます。宝を、宝
としてご覧になっているからです。
人が自分で気がつかないうちに、灰をかぶるようなことになっていくときにも
、主なる神様は、その灰だらけの頭を、光り輝く宝の頭と見られるのです。
人、私たちは、自分たちの側から物事を判断して、嘆き、苦しんでいる間は、
神様の前に立つ時に、灰をかぶっていなければ、立つことができません。
神様の前で、神様の正しさの前にいられない自分の情けなさ、愚かさに向き合
うとき、どうしようもない自分たちを自覚し、私たちは自分たちの頭に灰をか
ぶって呻くことしかできなくなるのです。
その時、神様はひたすら慈しみの眼差しで灰をかぶる私たちを見つめて下さい
ます。もっとも汚らしい私たちを、一番どん底にいる私たちを、光輝く宝とし
てご覧になります。
神様は、私たちの弱さ、力のなさ、辛さをすでにご存じです。
そして、私たちの側の状況ではなく、ただ、神様からの一方的な愛によって、
私たちを神様のもの、としてご覧になり、さらに、私たちにも、神様の眼差し
から見る、神の愛する人々の姿を教えてくださいます。
みことばには、こうあります。
主なる神様が、私を選び、神様によって用いられることとした。
それは、神様からの一方的なみこころで、私だけを救うのではなく、正しさに
欠けた人々に、本当の正義を与え、救いを伝えるためである。
人としての愚かさや偽善、自分たちで縛り付けた様々なことにがんじがらめに
なっている私たちを解き放ち、どうしようもない不幸、悲しみ、痛みの只中に
いる私たちを救い出してくださるためである。
恥にまみれた灰から、光輝く冠をかぶる者としてくださる。
嘆き、呻く、傷だらけの者だった私たちが、手当をされ主なる神様の愛の良い
香りを漂わせる、満ち足りた、安心した者とされる。
そして、主なる神様から、すぐ目を離し、さまよい、はずれる、自分たちの道
を保ち続けることのできない、信仰を持つことのできない私たちの弱さを、主
が整えて、導いて、主なる神に目を向け、主なる神だけを礼拝するものとして
くださるのです。
イエス様に導かれて、私たちは、高貴な命、恥を知ることのない者とされてい
きます。
神様からの恵みによって、イエスキリストの命によって、私たちは、嘆きから
、讃美へと変えられていくのです。
この讃美は、私たち、という限界のある力から出るものではないので、変わる
]]>主なる神様は、イエスキリストを通して、愛を私たちに与えてくださいました。私たち一人一人を見つめ、一つ一つの命に特別の使命をもたせ、大切に想って、見つめておられます。
神様が世界をお創りになりました。
私たちを大切な作品としてお創りになり、言葉が与えられ、考える力を与えられました。神様は私たちを愛しておられるので、それぞれ特別に、それぞれ違った賜物を与えてくださり、命を豊かに生きることができるように備えてくださいました。
イエス様が私たち一人一人の重荷を背負ってくださり、私たちの奥底にある罪を、ご自分の命をもって贖ってくださいました。完全なる正しさである、主なる神様の前で、どこにも傷のない命として立つことができるように、イエス様が命を差し出してくださったからです。
私たちがイエス様に出会う時、私たちのありのままの姿を、私たちは知ることになります。本当の痛み、悲しみと向き合います。奥底にある、暗闇、絶望に目を向けることになります。その絶望の中で、イエス様が立ってくださいます。そして、闇に光がさします。
すべての中心が私たちであったときは、自分の損得、自分の考えることだけが大事でした。どれだけ成し遂げたか、どれだけ、周りから認められたか、どれだけ自分の欲望が満足したが、が、幸せの基準でした。
そうして生きていくと、いつまでも何かに追いかけられ、いつまでも不満で、いつまでも悲しいのです。
イエスさまが私たちの中心になると、すべての意味が変わります。
私たちの力が無いところは、主なる神様の豊かな祝福を受ける、恵みの場となります。命を尊ぶところとなります。弱さの中、悲しみの中でこそ、主の愛を深く豊かに知ることとなります。
私たちは、命の誕生から、成長し、大人になります。
人を支え、励まし、多くを分かち合えるでしょう。たくさんのことを成し遂げ、社会に貢献する人もいるでしょう。
そして、また、命は次の段階へすすみます。
今まで出来たことができなくなり、強かったことが弱くなっていきます。
必死で生きていたときには、気がつかなかった周りのことに目が止まり、中心に立つことから、人に譲り、見守る側に立つようになります。弱さ、頼りなさを味わうことで、生きること、命、そして、天に召されることを意識することが多くなっていきます。
そうして、イエス様のみわざを見ることができるようになっていきます。
何かできる、何か成し遂げられる、何かもっていることが、人、なのではなく、神様から与えられる命の尊さ、神様から愛される命そのものが、人、だとわかるようになるのです。
イエス様にあって、私たちは、完全なものとなっていきます。私たちの、価値観、世界観、理解は、時間とともに変えられ、主の御国への思いが深められ、神様の私たちへの眼差しを味わうことができるようになるのです。
私たちは主と共に歩みます。イエス様が命をかけて、私たちとともに歩んでくださるからです。命は神様のものだからです。
主にあって、私たちは喜びましょう。主にあって、私たちは世界を見守りましょう。主にあって、主から与ったその知恵によって、私たちは自分を愛し、また隣の方々を愛してまいりましょう。
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